2013年12月22日

2013年12月22日『イエスによって語る』 西岡昌一郎

宣教要約  12月22日     西岡昌一郎
「イエスによって語る」   
ヘブライ人への手紙 1章1〜6節

 イエスが神の子として、この世に生まれて、わたしたちの中に生きてくださったのは、人間が一人ひとり神さまのもとで、かけがえのない者であることを明らかにするためでした。十字架による罪のあがないは、まさにそれを示しています。

 このためにイエスは「小さく弱くされた人たち」を訪ねました。貧富、身分、性別、宗教、民族の違いによる壁を取り除き、天地創造の初めから、すべてのものを「はなはだ良かった」と喜ばれた神の御心を現わしたのです。

 この神の愛が、イエスを通してわたしたちの前に具体的に示されました。これがクリスマスの出来事だったのです。イエスは、神の真実が現わされるために、一人の人間となって、この世の重荷を背負って歩いて行かれました。これによって主はこの世を支え、創って行こうとされました。

 ことしのクリスマス、六条教会では、気持ちの壁を乗り越えて、誰に対しても笑顔と祝福をもって、このイエス・キリストを伝えたいと願っています。わたしたちにできることは限られています。それでも、祝福の言葉をかけて主を伝えることならできるでしょう。お互いの貴さ、かけがえのなさを明らかにして伝えるために祝福の言葉をかけましょう。

 「あなたは祝福された人」という主の呼びかけの意味を知り、それを味わって生きるための新しい人生が始まる時、そこにクリスマスの喜びは生まれます。みなさんも、祝福された新しい人生を、どうぞ歩み始めてください。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.12.29 より〕
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2013年12月15日

2013年12月15日『あなたに聞こえるか』 西岡昌一郎

宣教要約  12月15日     西岡昌一郎
「あなたに聞こえるか」    
マルコによる福音書 1章1〜8節

 荒野は、わたしたちに不安や孤独、恐れを感じさせる場所です。ひとりでいると、自分の頼りなさ、心もとなさ、さびしさを感じます。そこには通常の生活では想像を越えた世界があり、日常的なものが通用しなくなります。そのような場だからこそ、人は神を拠りどころとすることを学び、わたしたちに語りかけられてくる神さまからの声を聴くのではないでしょうか。

 預言者ヨハネの叫ぶ声は、この荒野から聞こえてきました。「主が来られる」と。

 わたしたちにも、「人生の荒野」を経験する時があります。不安、孤独、恐れを経験するなら、その人は荒野に身を置くような経験しているのです。そういう時にこそ響いてくる神さまからの言葉があります。そこで、ようやく聞こえてくる声があります。

 預言者ヨハネの声を聞こうと、人びとはヨルダン川に集まり、悔い改めのバプテスマを受け、神を中心とした生活をめざしました。教会は、このヨルダン川のようなものです。人生の荒野から聞こえてくる神さまからの呼びかけを聞いて、教会に集まり、罪の悔い改めと共に洗礼を受けることで、イエスの名において神の子とされていくのです。このような方法で、イエスが救い主として来てくださったことを受け入れることが、クリスマスという出来事なのです。

 荒野の中から響いてくる神さまからの声が、あなたに聞こえているでしょうか。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.12.22 より〕
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2013年12月08日

2013年12月8日『イエスに触れる時』 西岡昌一郎

宣教要約  12月8日      西岡昌一郎
「イエスに触れる時」   
マルコによる福音書 6章53〜56節

 イエスのいやしは、病人に対する一種の治療行為であって御利益的なものではありませんでした。当時の医療は、現在にくらべると宗教的な装いをとってはいましたが、それが当時の最大限の医療でした。それが一定程度、効果をもたらしていたからこそ、次々とイエスに助けを求める人たちが現われたのでした(55節)。人びとはイエスに触れて、いやされていきました。

 病は、人をイエスへと導く力を持ちます。イエスに出会って、イエスに触れるために、病の経験は活かされていきます。苦しみ、悩みが、わたしたちにとってイエスに触れるための入り口となります。

 「奇蹟」と言われるものは、わたしたちの想像をはるかに越えた不思議な出来事です。しかし、きょうのイエスの奇蹟も、人びとが病人をイエスのもとへ連れて来なければ、それは実現しませんでした。また、せめてイエスの服のすそにでも触れさせてほしいという切なる祈りがありました。

 わたしたちは自分で奇蹟を起こすことなど出来ません。主が起こすのです。しかも、そのためにわたしたちの力を用いてくださって、主の奇蹟が実現していくのです。

 クリスマスを迎えていくにあたり、人びとがイエスに触れることができるように、さまざまな機会をとらえて働きかけてみましょう。奇蹟は、そこから始まります。

 「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(ルカ1:49)。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.12.15 より〕
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2013年12月01日

2013年12月1日『その日、その時』 西岡昌一郎

宣教要約  12月1日      西岡昌一郎
「その日、その時」   
マルコによる福音書 13章32〜37節

 きょうの箇所で、イエスはわたしたちに寝不足になるようなことを教えているのではありません。眠り込んでしまった信仰に対して警告しているのです。眠り込んだ信仰とは、自分の周囲に対して無関心で心を閉ざします。「目を覚ましていなさい」(33、35、37節)という言葉は、この世に対する責任意識の自覚を説いているのです。

 わたしたちは、自分のことだけでいっぱいで、周りが見えなくなる時があります。現実に背中を向けて、結果として現実逃避になってしまうのです。周りに目を閉ざさずに、静かに祈り、目覚めて見守り、誰かを支えることができないか、注意深く過ごすことが大切です。

 主人は、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように言いつけました(34節)。主人が帰ってくる「その日、その時」がいつなのかはわかりません。でも、その日はかならずきっと来ます。その時が来たら、待ってましたと、それに臨んでいくのです。

 主の御業のために、何かお手伝いできることはないのかと、いつも心を研ぎすませて待ちかまえていましょう。神さまの働きのために役に立つことはできないかと、絶えず注意深く備えている。それが、「目を覚ましている」ということなのです。

 主は、この六条教会を、ご自身の御業のために、どのように用いようとしておられるでしょうか。その日、その時が来たなら、喜んで乗り出して行けるように、いつも注意深く出番を待っていましょう。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.12.08 より〕
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2013年11月24日

2013年11月24日『憐れみを受けたのは』 西岡昌一郎

宣教要約  11月24日     西岡昌一郎
「憐れみを受けたのは」 
テモテへの手紙一 1章12〜17節

 教会の使命とは、聖書に記されているイエス・キリストの福音という喜ばしいメッセージをもって、この世の人々に仕えることです。そして人々に生きる勇気を与えることで、この世を支えようとします。

 信仰が知識や心を満たすだけに留まってはいけないと思います。信仰を自分の生活にしなくてはなりません。信仰を生活に満たすための知恵と工夫が必要です。そうすることで、教会としての福音の使命を担うことになります。このたしかな福音の使命はいったいどうしたら生まれてくるのでしょうか。

 使徒パウロにとっての使命の拠りどころは「神の憐れみを受ける」ことでした(13、16節)。この神の憐れみとは、上から見下すようにして同情を垂れることではありません。あまりにも愚かでみじめな人間の現実の中に、神がキリストを通して忍耐をもってご自身の身を置いてくださったこと。それが神の憐れみです。神がわたしたちのために身を投げ打ってくださったのです。

 かつてキリストの敵であったパウロは非難されるべきことはあっても取るところの何もない男でした(13節)。しかし、そんなパウロを神は憐れんでくださいました。それまで手に負えない、どうしようもなかった人間が、それでも神の憐れみを受けて、思いもかけず、新たに福音の使命を生きる者とされました。こんな自分でさえ、神の憐れみを受けたことで、彼は神からの呼びかけの声を聞いて使命を受けたのでした。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.12.01 より〕
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2013年11月17日

2013年11月17日『何もかもはできないのに』 西岡昌一郎

宣教要約  11月17日     西岡昌一郎
「何もかもはできないのに」
マルコによる福音書 4章26〜29節

 畑に種をまいた人が、夜昼寝起きしているうちに、いつの間にか種は芽や穂を出し、やがて実を結んでいきます。でも、いったい、それがどうしてそのように成長していくのか、種をまいた人自身にさえ、よくわかりません。土はひとりでに実を結ばせていく力を持っているというのです。

 このイエスの譬えは、独り相撲をして、孤軍奮闘の末、疲れきっている人に対して、諭しかけてくるメッセージがあります。すなわち、自分ひとりでは何もかもはできないこと。でも自分にできることは何かあること。自分以外に働いている見えない力がなくては、自分の働きも実を結ばないということ。まずは自分にできることから始めなさい‥‥。

 けさの譬えが目を注いでいるのは、直接には目にすることのできない神の恵みとその働きです。この目に見えない部分がかえって大事なところを支えています。わたしたちがなす働きも、目に見えないところで働く力と蔭の支えがあって成り立つのです。

 その一方で注目したいのは、種をまく人が種をまき、畑の世話をしなければ、目に見えない神の恵みも無駄になるという事実です。種まきの仕事があってもなくても無関係に実が結ぶわけではありません。それを必要として用いてくださる神の恵みがあって、種まきの働きも意味を持ちます。

 その点で、たとえどんなにささやかなことであっても、わたしたちができることをやるべき時にすることが大切です。「したいことをするのではなく、やるべきことをやることが必要です」(アウンサン・スーチー)。何もかもはできませんが、やるべきことはあります。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.11.24 より〕
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2013年11月10日

2013年11月10日『持っているもので』 西岡昌一郎

宣教要約  11月10日     西岡昌一郎
「持っているもので」  
コリントの信徒への手紙二 8章8〜15節

 当時、経済的に困窮していたエルサレム教会のためにマケドニアの教会が財布事情の厳しい中、期待以上に多くの献金をしました。そのため、パウロはマケドニアの教会よりもゆとりのあるコリントの教会に対してもエルサレム教会への支援を呼びかけたのでした。

 パウロは「進んで行なう気持ちがあれば」(12節)と述べています。この事柄のすべての前提は自発性に基づいています。しかも、「持たないものではなく、持っているものに応じて」やってみなさいと教えているのです。持っていないものまで求めているわけではありません。どんなに小さくてもよいから、自分が持っている力でやってみなさいと言うのです。

 これは献金に関することばかりではないと思います。わたしたちの信仰生活全般に関わってきます。あなたが、どんなに小さくささやかなものであっても、それでやりとげてみなさい。そうすれば、からし種ひとつぶほどの信仰も、やがて山を動かすほどの力となって働き出すのです。

 自分に足りないものを数え出せば、おそらく際限がないでしょう。年齢と共にできなくなることも増えてくることでしょう。神さまは、そんなわたしたちのことを何もかもご存知です。こんな自分であっても、それでもなお自分の持っているものでもって主にお応えしていく世界が拡がっていくのです。たとえ、自分ひとりだけでは無理なことも、神は不可能を可能とされるのです。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.11.17 より〕
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2013年11月03日

2013年11月3日『見失ってはならないもの』 西岡昌一郎

宣教要約  11月3日      西岡昌一郎
「見失ってはならないもの」 
マルコによる福音書 9章14〜29節

 発作に苦しんでいる一人の少年を横に置いて、弟子たちは律法学者と論じ合っていました。結果的に肝心の少年は、ほったらかしです。だからイエスは嘆き、その少年をご自分のもとに連れて来させました(19節)。

 忘れてはならないのは、わたしたちが向き合わなくてはならないのは何かを知っていることです。それは痛みを負っている人びとの魂をイエスのもとに連れて来ることです。そこに祈りがあります。

 教会は自己目的のためにはありません。神の御業のためにあります。その神はイエスを通して、この世の救いのために、この世で働いています。福音を通してこの世に希望と慰めをもたらそうとすることで教会はこの世を支えます。自分たちで満たされていることが目標ではありません。

 イエスのまなざしは、絶えず、この世の現実に対して注がれています。現実を横に置いて議論に熱中することはありませんでした。イエスは、この世の現実に目を開け、目を覚ましていました(マルコ13:33、14:38)。イエスが言う祈り(29節)は、わたしたちが、この世に対して目覚めているということです。そこで働く神の御業に目を留め、無関心にならないということです。眠り込むことはしません。イエスの祈りは、この世での神の働きに心を砕きます。その中から、わたしたちが果たすべき使命が示されるのです。

 見失ってはならないのは、イエスの祈り、現実に対して目覚めた祈りです。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.11.10 より〕
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2013年10月27日

2013年10月27日『すばらしいひととき』 西岡昌一郎

宣教要約  10月27日     西岡昌一郎
「すばらしいひととき」    
マルコによる福音書 9章2〜8節

 山上で栄光に輝くイエスの姿を、マルコ福音書はイエスの十字架の苦難予告(8章31〜38節)と、死者の中からの復活予告(9章9〜10節)の間に置きました。このことは、イエスの受けるべき栄光が十字架と復活を抜きにしては語れないということです。イエスの栄光の輝きは十字架の苦しみと死を通して初めて現われた輝きでした。

 いきいきと輝いて生きている人でも、何の苦労や悩みもないのではありません。むしろ挫折と紆余曲折を経て、ようやくたどり着いたところで輝きを放つ生き方を見出して行ったのでしょう。逆境にあって苦労をしたからこそ放つことができる輝きがあるのではないでしょうか。傷つきながら自分の十字架を背負う人の姿が誰かの生きる力を与え、勇気づける輝きを放ちます。そこに、イエスの十字架を通して現わされた栄光へと通じる輝きを見ることができるのです。

 教会は、このイエスの栄光を見つけ出して、すばらしいひとときを経験するところです。初めて教会に来た人たちが、この不思議な輝きに浴して、これはいったい何なのだろうかと思ってもらえるようなすばらしい時を過していただきたいのです。ここに来ると慰められ、勇気づけられるのはなぜなのか、その理由を尋ねたくなるようなひとときを過してほしいのです。その源は十字架のイエスの栄光から来ているのだと伝えて行くことが、教会の果たすべき使命なのです。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.11.03 より〕
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2013年10月20日

2013年10月20日『キリストの体を建てる』 西岡昌一郎

宣教要約  10月20日     西岡昌一郎
「キリストの体を建てる」 
エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節

 「聖なる者たち」(12節)、すなわちすべてのキリスト者は、何らかの意味でキリストに仕える奉仕職にある者たちのことです。わたしたちがキリストの体なる教会の肢として集められているのは、キリストの働きに仕え、キリストに向かって成長するためです(15節)。

 別の言い方をすれば、キリスト者はキリストなしには成り立たない人生を生きているのです。ですから、わたしたちはキリストによって、しっかりと組み合わせられ、造り上げられていくのです(16節)。その点で、わたしたちはキリストを抜きにして自分ひとりだけでは、ほとんど何もできない存在です。キリストなしでは、お互いがもはや成り立ち得ないのがキリストの体である教会です。自分ひとりだけでは何もできませんが、キリストにつながることで、そこにわたしたちのなすべき使命が示され、自分の持っている力がはじめて活かされていくのです。

 16節には「自ら愛によって造り上げられていく」とあります。この愛は十字架に現わされた神の忍耐です。これが人を慰め、励まし、支えようとします。教会は、この愛によって建て上げ、造り上げられていきます。その意味では、聖書が示す愛は、誰かを支え続けようとする前向きなものがあります。

 六条教会はキリストの体を建て上げるために働きつづけています。この働きは神の御業です。その御業のために、わたしたち一人ひとりの力がキリストのもとにあって結び合わせられることで、神の力は働いてきました。わたしたちにできることは小さく限られていますが、神の愛によってつなぎ合わせられることで小さな力が全体の中で活かされ、キリストご自身の存在がいきいいきと現わされるのです。

〔 旭川六条教会 『 週報 』 2013.10.27 より〕
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