2012年05月13日

2012年5月13日『主がいる!』

宣教要約  5月13日   西岡昌一郎牧師
「主がいる!」  
ヨハネによる福音書 21章1〜14節

 ヨハネ福音書が記された直後に21章が付け加えられました。これは、きっとペトロをはじめとするイエスの弟子たちの再出発を強調しておきたかったのでしょう。

 イエスの十字架の後、弟子たちが再出発して歩み出したのは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の岸辺でした。この場所は、かつてイエスがペトロたちを弟子として招き集めたゆかりの場所です(マルコ1:16〜20)。つまり、ペトロたちにとっては日常の生活の場でした。そこが彼らにとっての再出発の場でした。

 弟子たちは漁に出て何も獲れず、明け方、岸に戻りかけました。その時、復活のイエスが「舟の右側に網を打ちなさい」と声をかけたのです。徒労とも思えるようなことを、あえてもう一度やってみなければ、大漁という奇蹟は起こりませんでした。

 「もうだめだ」と失望に陥った弟子たちにとって、しかしその先に主がいてくださり、なおあらたな展開が開かれるのを経験したことで、彼らは勇気と力を得ました。「主がいる!」と主を見つけ出したことで、彼らの中にスイッチが入りました。そして自分の持つ能力や賜物を活かして発揮する道を見出したのです。

 イエスという電源が入り、スイッチが入ってこそ、弟子たちの人生は起動し、その能力が活かされ始めたのです。「主だ」「主がいる!」と、きょうのペトロのように、わたしたちも喜び勇んで、自らの身をゆだね、主に向かって飛び込んで行きたいものです(7節)。


〔旭川六条教会『週報』2012.5.20 より〕

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2012年05月06日

2012年5月6日『喜び、痛みを感じる心』

宣教要約  5月6日  藤吉求理子協力牧師
「喜び、痛みを感じる心」 
エゼキエル書 36章24〜28節

 エゼキエルには巻物を食べるなどの象徴的な行為や、理解に苦しむ表現が多くある。これは捕囚の地で政治的な発言をすると危険だったため、黙示的な表現が使われているためだ。この時代は預言者も聴衆も語られる言葉の裏側にどんな神の意図が隠されているか、一生懸命読み取ろうとした。現代もたくさんの情報があふれているが、政治的な意図から編集され削られた報道も多い。私たちもその中から本当に大切なものを読みとる力が必要とされている。
 
 エゼキエルが民族の回復のために語った最大のことは、「祖先やこれまでの経験でなく、自分で決断し神に従う」という事だ。イスラエルでは祖先の罪が子孫まで引き継がれ、1度罪を犯したものはずっと罪人であると考えられていたが、エゼキエルは「私が私として神と出会う必要」を示した。
 
 エゼキエル書の後半は慰めと回復の預言が語られる。36章24節では「お前たちの土地へ導きいれる」と語られ、故郷から引き離され「根っこ」を失った民に、大きな希望が与えられた。26節では「石の心を取り除き、肉の心が与えられると」と言う。肉体はいのちを包み、心地良さや痛みを感じ、成長しまた朽ちるものである。だからこそ今が大切である。創世記で土の塵に息が吹き入れられ人が生まれたように、傷つき果てた人々に、いのちである「肉の心」が与えられ、神の霊が置かれ、一人ひとりが神と出会い、神の示す正義と恵みの道へと導かれた。
 
 信仰の継承もこのようなものではないか。礼拝出席や洗礼を若い世代に勧めることも大事だが、大切なことは「本人による新しい決断」ではないか。「こうあるべき」と信仰を強制するのではなく、神を信じる人たちが、傷ついたり喜んだりしながら、いきいきと神の道を求め歩く姿を示すことが必要ではないか。その中で若い人達は、自分の意思で神と出会い決断していく。自分で決め選び取ったとき、心は開かれ、いのちの風が吹き渡るだろう。
 


 
〔旭川六条教会『週報』2012.5.13 より〕
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2012年04月29日

2012年4月29日『ここに危険がある』

宣教要約  4月29日     西岡昌一郎
「ここに危険がある」
ヨハネの黙示録 3章14〜22節

 きょうの箇所には、喜びを失っている信仰について警鐘が鳴らされています。
 
 「生ぬるい」(16節)信仰とは、キリストにあらたに聞き従うことを必要と感じない自己充足的な弛緩した信仰のことです(佐竹明)。自分で事足りてしまって、これ以上キリストに聞き従う必要を覚えず、いわばぬるま湯につかっている信仰です。
 
 「ここに危険がある。……かつてのように神に拠り頼まず、助けを求めて叫ばない。もう神の光のもとに決断しなくなる。祈りも生ぬるいものになる。貧しい者に聞いていず、生ける神に聞かれていない。そして驕っていく」(ジャン・バニエ)。
 
 この生ぬるさは、17節で「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という言葉になり、20節以下にある扉をたたくキリストの呼びかけに心閉ざして閉じこもる姿につながります。
 
 だからキリストのために何かをする時に、それは主の喜びとなり、また自分にとっての喜びとしましょう。自分を満たして閉ざしているだけでは、けっしてあずかることのできない信仰の喜びがあり、力が生まれます。自分の存在が誰かに生きる力を与えるならば、それは自分にとっての喜びであると同時に、主にある喜びとなるのです。
 
 このために、まずは自己満足のためではなく、誰かのために働いてみましょう。余計なことは言わずに誰かのそばにそっと寄り添い、静かにほほえんでいるだけでも誰かの力になれることがあります。相手のすばらしさ、貴さを現わし、示すために、キリストの愛があることを伝えていきましょう。


 
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2012年04月22日

2012年4月22日『造り上げる』

宣教要約  4月22日     西岡昌一郎
「造り上げる」     
 コリントの信徒への手紙一 14章12節

 異言は、熱狂的な信仰の人たちが興奮状態の中で語る不可解な霊的言葉です。パウロは異言を語る人が信仰熱心なことは認めていましたが、周りの人びとには何の意味かわからず、むしろ混乱や戸惑いをもたらしていることに心を痛めました。大事なことは、信仰熱心で満足してしまうことではなくて、その熱心な賜物で教会の信仰を造り上げていくことなのです。わたしたちの教会にイエスさまが生きて働いていると言えるまでに、教会がキリストの体となって建て上げられていくことが重要なのです。

 新年度の六条教会の年間標語は、この「造り上げる」です。この標語は六条教会にとって、あらたな世代の人びとによって、これからの六条教会を造り上げるという意味があるのです。

 次の世代の人びとに申し上げます。これからは、みなさんが奮起して教会を造り上げる番です。このために礼拝と祈りの生活を大切にしてください。信仰の新しい命にあずかり、キリストにあって造り変えられ、いきいきと神をほめたたえてください。

 これまで長く六条教会を担ってきた世代のみなさんにお願いしたいことがあります。みなさんは、敗戦後の日本が大きく価値観を変えて行く中で、キリストにあって自分たちの人生を見つけ、歩んできた人たちです。長い年月の道のりを、喜びも悲しみもキリストあって味わい、ここまで来られました。それだからこそ、今ぜひとも語らなくてはならない信仰の証しがあります。どうぞ、それを自分の子や孫に、これからを生きて行く人たちに十分に語ってください。そのために、わたしも祈っています。

 いずれの世代の人たちも、今や待ったなしです。このために、覚え合って祈り、励まし合い、具体的に奉仕していきたいものです。



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2012年04月15日

2012年4月15日『わたしは、ここにいる』

宣教要約  4月15日     西岡昌一郎
「それでも、これがわたし」
 ローマの信徒への手紙 3章21〜26節

 わたしたちは罪深い者です。これは犯罪や法律違反という意味ではありません。誰かれと、関係を損なってしまう罪作りなところがあります。神さまに対しても、隣人に対しても、たえず関係をゆがめたり、傷つけたりして生きています。

 こんな破れだらけのわたしたちですが、それでも主はわたしたちを十字架の贖いによって取り戻してくださってまでして、わたしたちを貴んでくださった。これが、ここで言う神の義です。

 主は、あなたたちがいなくては、やって行けないと言ってくださっているのです。お互いに、無くてはならないものなのです。別な言い方をするなら、あなたの存在そのものが、誰かにとっての生きる力を与えているということです。神に義とされている者は、そのことを信ずることができるのです。

 身勝手で独りよがりな自分ですが、しかしキリストによって贖い出された世界から見ると、それでもなお、ここに主に愛されている自分がいるのです。主の贖いによって、それでも、これがわたしなのですと、主をほめたたえることになるのです。

 こんな自分が、それでも神さまの憐みを受けており、誰かの生きる力となっていることを信じましょう。もし、信じられないとすれば、十字架の贖いと神の義を無駄にしてしまうことです。今や、あなたを失っては、お互いが成り立たないという関係の中に生きているのです。



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2012年04月10日

第19期キリスト教入門講座のご案内

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第19期キリスト教入門講座の開催要項が出来上がりました。
受講料はいりません。
キリスト教を学んでみたい方々がおられましたら、ぜひどうぞ、お越しください。
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2012年04月08日

2012年4月8日『わたしは、ここにいる』

宣教要約  4月8日      西岡昌一郎
「わたしは、ここにいる」
 ヨハネによる福音書 20章19〜23節

 扉を閉ざして狭い部屋の中に閉じこもってばかりいては、部屋の空気は濁り、やがて息が詰ってきます。そんな弟子たちに新しい命、聖霊の息が吹きこまれ、弟子たちの信仰は息を吹き返しました。このとき、弟子たちの恐れは信じる喜びへと変わりました。
 
 わたしたちも、復活のイエスにより命の息を吹きこまれて生きて行きたいです。深い死の眠りの中から、やがて復活の目覚めの朝を迎えた時、心地よい朝風と穏やかな朝の光の中に目をさまして、「シャローム、おはよう。あなたに平和があるように」との主の声を聴く日が来るのです。
 
 そのとき、主は両手をひろげて、わたしたちを迎え入れて言われます。「けっして、あなたをひとりにしません。わたしは、ここにいるのです」と。
 
 だから、わたしたちがこの世で数々の傷を負い、つまずき倒れていようとも、誰が責めようと、けなそうと、それはもはや問題ではありません。わたしたちをもう一度立ち直らせて、「わたしは、ここにいる。あなたがいてくれるのは、かけがえなく貴いこと」と言ってくださる主の言葉にめぐり合うことが大事なのです。
 
 うずくまってしまうわたしたちに、それでも主はこのわたしを選んで、命の息を吹きこんでくださいます。「顔を上げて、あなたはあなたらしく生きて行きなさい」と語り、うながしてくださるのです。


 
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2012年04月01日

2012年4月1日『真理とは何か』

宣教要約  4月1日      西岡昌一郎
「真理とは何か」 
  ヨハネによる福音書 18章33〜38a節

 ヨハネ福音書は、真理という言葉を好んで使います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(略)それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 問題は、イエスを通して表わされた心理の内容です。それは「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(3章16節)に表わされています。すなわち、自ら十字架を背負い、命を捨ててまでして、わたしたちを贖い取り、命を喜ぼうとされた神の愛です。

 自分の命まで捨て、本当のものを表わそうとする。またそこまでしないと伝わらないことがあります。自分の信じていること、自分の大切なことのために、あえて自分なりの十字架を背負わなくてはならないことがあります。まわりの人たちは、そこに本気さを感じとります。周囲の人たちの気持ちが動かされ、変わっていくのです。

 避けて通りたいと思うような悩みや困難の多い場に身を置き、わずらわしさを背負って行くことで、イエスにある真理は伝えられて行きました。強引に力や正義を振りかざし、強さで打ちのめして従わせるのではありません。一見、おろかに見える十字架の無力な姿、黙々と苦しみ悲しみを背負って行った姿を通して、イエスは人の心を動かして行ったのでした。

 主は言われます。「ここにあなたの十字架がある。これを通して人の痛みとわたしの愛を知ることができる。不安、恐れ、孤独という荒野を歩いて、ようやくわたしのもとにたどり着く。そして、わたしに従え。従うことで、わたしの真理を伝えよ」。


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2012年03月25日

2012年3月25日『暗闇に追いつかれないように』

宣教要約  3月25日     藤吉求理子
「暗闇に追いつかれないように」
ヨハネによる福音書 12章20〜36節

 「一粒の麦」が「地に落ちて死ぬ」とはどういうことか。小麦は大麦に比べ外皮が固い。しかし土に蒔かれた時、水分を含み、外皮が砕かれ、微生物や土中生物が産み出す栄養素を摂取し、多くの実を結ぶ。これはあらゆる人と出会い、自分自身も砕かれ傷つき十字架につけられたイエスの生き方を表している。

 27節には「心騒ぐ」人間らしいイエスの姿がある。そして14章には「心を騒がせるな」と勇気づける言葉が残されている。

 35節「光はいましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように光のうちに歩きなさい」とある。これは、理想的な未来ではなく、目をそらさずに光のある「今」を見ていく大切さを語っている。

 「ショコラ」という映画を見て、教会が生む「闇」について考えさせられた。1959年フランスの小さな村で、教会を中心に、人々が伝統や倫理を守る生活をしていた。そこには正しいクリスチャンであることを重んじながら、権力者が説教を検閲し、弱い立場の人たちが排除される現実があった。その村に親子が越してきて、チョコレート屋さんを開き、闇の中にいた様々な人と交流し、村が少しずつ変わっていく。

 私たちの教会もそのような闇をもっていないだろうか。「正しさ」を求めるあまり、闇の中に見落としているものがあるのではないか。また、無力感や孤独の中で光が見えなくなっているのではないか。

 今年度ティーンズ活動をする中で楽しさもあったが、自分の無力さも感じ、闇に包まれそうになることもあった。その中でも、ティーンズと心がつながれた時「光」を見ることが出来た。闇の中に沈み込むのではなく、「光」を信頼し、新年度も六条の皆さんと歩いていきたい。


 
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2012年03月18日

2012年3月18日『ここが、あなたの場だ』

宣教要約  3月18日     西岡昌一郎
「ここが、あなたの場だ」
 創世記 13章8〜18節

 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」(14節)という神の言葉を聴いた時、アブラムはどんな気持ちになったのでしょうか。荒涼とした大地の真中に立たされて、「ここが、あなたの場所だ」という神の声を聴いたのです。こんなにさびしい場所が、どうして祝福の約束された場所なのだろうか。グルッと見回しても、なにも良さそうには見えない。そんな場所で、「ここが、これからあなたが生きていく場所なのだ」という声を聴いて受け入れたのが、きょうのアブラムの信仰だったのです。

 そうだ、ここにあなたの身を置いて歩む場がある。生きるのは、この場所なのだ。数々の失敗やつまずき、多くの傷を負いながらも、この場に身を置いて生きていく。誰がどう言おうとも、でもここに自分がいる。これがわたしなのだ。「ここが、あなたの場所だ」と語る主の声を聴くということは、そういうことなのです。

 わたしたちも、「ここが、あなたの場だ」という神の声を聴く瞬間がかならずあるはずです。激しく自分が揺さぶられ、問われるような厳しい局面で、わたしたちは、この声を聴いて行きます。何の見通しも、意味も見出せないように見える失望の中でも、この声は聴こえてきます。殺伐として荒廃したその場が、それでもこの自分にとっての場であり、神が祝福した場だということに気づき始める者は、誰でもアブラムが受けた神の祝福と同じ祝福にあずかっているのです。


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